第三話 「不自由な左足 鍛錬の登下校」

第三話 「不自由な左足 鍛錬の登下校」

小学1、2年時は近くの旧合志村立豊岡小の群分校に通いましたが、3年生に上がると、本校に通うことになりました。
左足が不自由でしたが、学校まで片道4キロの道を歩いていかなければなりません。母からは杖[つえ]を使うことを咎[とが]められていました。しかし、子供心にも杖なしでは歩けないと思ったのでしょう。母に見つからないように途中の山道に杖を隠し、その杖を頼りに歩きました。それでも片道1時間半ほどかかりました。 たまには、近所の人たちが馬車やリヤカーに乗せて学校までに送ってくれることがありました。歩いていると、左足の靴が脱げるのでよく裸足[はだし]で歩きました。下校時は休み休み歩くので2時間かかりました。なかでも雨の日は傘をさすので杖は使えません。足を引きずりながら歩きました。昭和28年の3年生から卒業するまでの4年間は鍛錬の毎日でした。この鍛錬のおかげで体は強くなりました。左足は相変わらず細く冷たく麻痺[まひ]したままでしたが、右足が丈夫になり、右足をばねにピョンピョンと飛ぶように歩きました。
登下校の8キロは精神力や我慢強さを培い、後の人生に大きく影響しました。大人になっていくつも難関に出合いましたが、この4年間の登下校に比べると何でもありません。
小学校では行進の練習がよくありました。何度も転びクラスに迷惑をかけました。3年生の運動会では無理やり走らされて、やっとゴールにたどりつくと、周りから拍手喝采、ガンバレコールが沸き起こりました。先生から褒められて、得意げに母に報告に行ったら、母は泣いていました。すぐに私の手を引いて帰宅してしまいました。
それから母は運動会に来なくなりました。母はプライドが高く、人に弱みを見せたくなかったのでしょう。長姉清子は働き者で美人でしたので中学を出ると、村一番の農家に手伝いに行き、そのまま嫁入りしました。
次姉の和子は近くにあった国立療養所菊池恵楓園付属の看護学校に進みました。後に福岡の国立病院に勤務、家に仕送りをしてくれました。