第二話「母 日雇いで生活費稼ぐ」

第二話 「母 日雇いで生活費稼ぐ」

小学2年生の時、父が43歳の若さで亡くなり、収入が途絶えました。
 39歳だった母は遺[のこ]された畑で農業を始めました。夜は着物を仕立てていました。「働いてさえいれば何とかなる」が口癖でした。
 父が逝った翌年の昭和28(1953)年6月26日、降り続いた大雨で熊本県内では河川が氾濫し未曽有の大水害となりました。6・26水害です。その復旧工事が白川沿岸など各地で始まり、多くの人手が必要でした。母は募集に応じ、日雇いの力仕事に出始めました。
 早朝5時に私たち4人の食事の準備をして、旧国鉄豊肥線の三里木駅まで急いで歩いて40分、汽車に乗って水前寺駅で下車、熊本職安に8時についてトラックが迎えにくる、と言っていました。
 子供心に今も鮮明に残っているのが作業服を着た母の姿です。
 父がいたころは、母は着物にエプロン掛けで優しく、美しかった。ところが、日雇いに出るようになると作業服に髪を刈り上げ、男のような格好でした。
 この母の姿が大嫌いでした。元の優しい母に戻ってくれと泣きながら頼んだら、棒で殴られたことを覚えています。
 今思えば、父が死んで収入がなく、慣れない畑仕事や着物の仕立てだけでは、5人家族の生活費は賄えなかった。切羽詰まっての日雇いだったのでしょう。母は近所から借金もしていたようです。子どもながらも生活の苦しさを感じていました。
 母が殴った棒は、歩くのが不自由なため杖[つえ]として使っていた大切な物でした。母は以前のようにエプロンを掛けるようなことはしなくなりました。その日を境に強い親になったのです。
 母の気迫に押されたのでしょう。私は杖に頼ることをやめて、自分の足で歩き始めました。今になって思えば、大きな転機でした。不自由な左足に靴をひもでくくりつけて歩きました。
 さらに母を悲しませることが起きました、小学3年生ごろから吃音[きつおん]でどもるようになりました。人前で話すのが苦になり、成長するにつれ不自由な左足とともに私を悩ませ苦しめました。
 厳しい母に比べて、近所の皆さんは障害のある私に大変優しく接してくれました。