第一話「小児麻痺 左足に障害残る」

第一話 小児麻痺 左足に障害残る

小学2年生のころの米澤房朝さん(左)。右は弟義一さん。中央はいとこの昭子さん

終戦の前年、昭和19(1944)年2月1日、旧菊池郡合志村大字豊岡字上群[かみむれ]に生まれました。
 父吉房は8人きょうだいで農家の三男坊でした。国内で終戦を迎え、戦後は西合志郵便局に勤めていました。母ツジは旧合志村の地主だった河津家の長女でした。裕福な家庭に育ち、父とは恋愛結婚だったそうです。昭和12年のことです。見合い結婚が当たり前でしたので、2人の結婚は母親側から相当反対されたようです。
 私が長男で上に2人の姉、下に弟の4人きょうだいです。上の姉松本清子は昭和12年生まれ、次姉柴田和子は15年生まれ。弟義一は25年生まれでした。姉2人は学校の成績もよく美人で、子どもながらに自慢でした。

しかし、私は生まれてすぐ小児麻痺[まひ]にかかりました。戦時中です。医者からは助かる見込みはないと言われたそうです。母の執念、必死の看病が実り、命までは取られませんでした。ただ左足に障害が残り、今も身体障がい者5級を交付されています。
 母は小児麻痺[まひ]を自分のせいと思ったのでしょう。私の不自由な左足を周囲に見せませんでした。小さな左足は冷たく、年中霜焼けに。母は父や姉たちに隠れて、こっそり包帯を巻いて手当てしてくれました。
 生まれた群は小さな集落で群山、小山、飯高山の三つの小山があり、子どもにとって山で遊ぶことは何よりの楽しみでした。集落に隣接して米軍の進駐軍基地、飛行場、落下傘場などがありました。毎日、戦車や戦闘機が目の前にあり、スリル満点の遊び場でした。
 小学校は村立豊岡小で2年生までは群分校に通いました。すぐ近くなので杖[つえ]を頼りに歩いても苦にはなりませんでした。小さな教室に仲良しの同級生が20人ぐらい。いがぐり頭の山隈和道先生が優しかったのを覚えています。楽しい思い出であります。
 ところが、2年生の時思わぬことが起きました。昭和27年2月、病弱だった父が亡くなったのです。家で養生していたのですが、肝臓がんだったようです。43歳でした。わが家は5人の母子家庭になりました。