第九話 「30歳で独立開店準備へ」

第九話 30歳で独立開店準備へ

現在の奥村ビル。1974年、1階(右から2番目。テントのある所)で創業した=熊本市の県庁近くの東バイパス沿い

大変恵まれた職場環境でしたが、30歳を迎える昭和49(1974)年に独立すると決心しました。前年のオイルショックで日本経済は金融引き締めで厳しい局面でしたが、小さな店を開くのには支障はありません。
 レンズメーカーのHOYAに相談したら「全面的に協力しよう」と快諾。HOYAはメガネ業界では新参者で老舗との取引が少なく、新規開業の店を求めていました。
 大宝堂退社の6カ月前、布田龍吉社長の了解を得て準備に取り掛かりました。一切業務に迷惑をかけない約束でした。
 フレームは委託で大阪の「瑞宝眼鏡(現メガネの愛眼)」が軌道に乗るまで貸してくれる約束です。その代わり宮崎市に出す直営店を軌道に乗せることが条件でした。

大分市の「ヤノメガネ」で働いていた弟義一に無理をいって退社させ、初代店長として宮崎に行ってもらいました。
 事業計画書ができあがり、布田社長に見せたら「HOYAには用心しろ」とアドバイスをいただきました。
 店は熊本市の東バイパス沿い、県庁近くの奥村ビル1階。四つに仕切られた29平方メートルほどの小さな事務所を借りることにしました。東バイパスはまだ工事中で片道通行でした。周辺にビルは少なく、奥村ビルは淡いブルーの3階建てで清楚[せいそ]な感じがしました。
 ところが、商品の準備段階でHOYAからレンズの納入を断ってきました。快諾してくれた若い営業マンに決裁権がなく、同じ商圏に他の出店もあり、続かないと判断したのでしょう。
 布田社長の言った通りになり、仕方なく大宝堂の取引先、東海光学からレンズをお借りしました。
 いよいよ、12年間お世話になった大宝堂を退社する日が近づいてきました。気が滅入り、布田社長への申し訳なさで、後ろ髪を引かれる思いで毎日が過ぎていきました。
 昭和48年11月29日、大洋デパート火災が起きました。104人の死者の中に私が大宝堂に入社させた弟の友人、三村誠喜君がいたのです。彼の葬儀の弔辞を読んだ後、退社を決断しました。
 その後、上通に出店の話が何度かありましたが、恩ある店と競合したくないので、全てお断りしています。